前回からの流れが多少逆になるかもしれないが、そもそもスポーツをするになぜに敢えて「integrity(健全性)(高潔性)」などが求められなければならなくなってきたのか?子供のころは大人の世界に憧れて子供として守るべきルールを破ったりした「背伸び」をしたものだ。勿論叱られて廊下に立たされたりもした。そうならないように“個人戦術”も身に付けたりした。であったとしてもやはり大人の世界には「格好良さ」があったのではないか。スポーツする人は「善い行い」をする人でなければならず、平気で嘘をつく、相手のことなど構わず自分よければ全てよしの「自己中心」、約束は守らない、「信義」に劣る、断じてあってはならないことであり理由など細かく説明やプレゼンなどされることなく当時の子供は大人のスポーツマンをこのような行いは絶対にしないものと信じていた。ところが、今頃はどうだろうか?スポーツ界に限らず「決められたことを破る」「ルール違反をする」「コンプライアンス(遵守)、ガバナンス(統治)は?」など、「そんなことは綺麗ごとであり馬鹿正直に守っていたら相手に勝てない。」と「論」を展開する大人ばかりが幅を利かしているのではないか。そのような大人を袖から見て「学ぶ」」子供(選手)が「生き残った」と錯覚する。あるスポーツ界の重鎮は「国が富むと若者が堕落する。だからこの国にはスポーツが必要なのだ。」と説いた。「スポーツマンシップ」の大家である故広瀬一郎先生は著書「スポーツマンシップ立国論」(2010年初版)において「スポーツは勝者と敗者を作ります。敗者になることで、敗者とは何かを学び、理解することが出来るのです。敗者とは他人事ではなく、自分の問題であることを理解すること、つまり当事者意識を持つことは、健全な社会を形作る上で極めて重要です。」と。スポーツマンシップの実践には「覚悟」と「尊重」が必要です。
「選手団一同、スポーツマンシップに則り正々堂々闘うことを誓います。」という宣言をする必要がなくなるまで長い道のりかもしれないが、スポーツの今と未来には必要なことなのだろう。都心の電車内で高級ブランドスーツを身にまとったビジネスマンが小学生のグループの前で我先にと椅子取り合戦を平気で繰り広げる、プロ選手であっても日が変わるまで“外食”(プロトコル無視)、面倒見宜しく選手の選択権を奪う指導者、あまりにも格好の悪い大人が多い。
と嘆いてばかりもいられない。さあこれから指導者を目指す選手達、選手の未来に触れていることに気付いている指導者の皆さん、早速スポーツというツール(武器?)を正しく活用して格好の良い大人になるよう、頑張りましょう。武運長久祈念します!